(『中国新聞』2007年6月28日掲載)
モンゴルの草原で遊牧民と暮らした時の話。
モンゴルの羊の捌き方は、一滴の血も流さない。
なにかを察して暴れる羊。
僕の手は、その羊の足を押さえつけている。
振りほどこうする凄い力と、
「生きたい」という、強い気持ちが手に伝わってくる。
心臓の近くを、
毛を削ぐように軽く、ほんの数㎝ナイフで切る。
そこから手を刺し入れて、
心臓の近くの血管を探り、爪で切る。
血は横隔膜の内側に溜まり、外側に流れ出る事はない。
羊は、「グ〜〜〜」と大きな息を吐いた。
まるで魂が抜けて行く音の様だ。
徐々に首の力が抜けて、
その頭はゴトリと地面に落ちた。
ホッとする気持ち。
寂しい虚無感。
大きな罪悪感。
そしてなにより、食べたいという気持ち。
矛盾しつつ混ざり合う事のない気持ちが、
ぐるぐると湧いてくる。
その気持ちがあるからこそ、食材を徹底的に利用する。
内蔵は、
苦い胆のうと肺が犬のエサになる他は、全て塩ゆでにして食べる。
肉は、
塩ゆでにし、基本的に焼かない。
流れ落ちる脂をも無駄にしない為だ。
頭も、
焼いて毛を焼いてから、茹でて食べる。
横隔膜の内側に溜まった血は、
丁寧に丁寧に、
お椀ですくい、
玉ねぎと、小麦粉少々を加え、
腸詰めにして、
他の内蔵と一緒に茹でる。
肉を食べる時も、ナイフで削るようにして、
骨がピカピカ光るほど、
きれいに食べる。
もちろん、骨髄もほじって食べる。
モンゴルの草原にあるもの。
それは、
食べる為に命を奪っているという自覚だ。
僕は町で産まれ育ち、
それまで、
そういう自覚を持った事がなかった。
牛や羊や鶏もいなかったし、
野菜がなっていて、
米や麦が風になびいているという風景もなかった。
だから、
草原で生活した後にパン屋になってよかった、とつくづく思う。
僕は、
パンを焼くのに失敗すると、
狂ったように怒り、叫び、落胆し、落ち込む。
周りから見ると、きっと異常だろう。
でも、
悪いパンを焼いていたら、小麦に申し訳ない。
そんなパンは、
売れ残り、捨てられるのだから。
いいパンを焼くのは小麦の命に対する責任だ。
その気持ちが僕のパンをよくしてくれる。
やはり、
モンゴルの草原が、僕の食に関する故郷です。
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