(『中国新聞』2007年7月19日掲載)
フラフラしていた大学4年生の冬。
僕はドイツに行った。
その地で食べたパン。
カイザーゼンメルという堅焼きパンや、
プレッツェルというビールのつまみパンは、やっぱりおいしかった!
そこで、
お土産に買い、日本で食べたら、
これが全然美味しくなかった。
なぜだ?
「ドイツと日本では、湿度がちがって、
そこから派生して、口の中の湿度も異なります。
すなわち、
美味しいと感じる食物の柔らかさ、しっとりさ、
というものは気候に左右される為、
そう感じたのです。
そうなのです!」
と専門家なら両断してしまいそうだけど、
僕の考えは違う。
日本で食べるドイツのパンが美味しくなかったのは、
ここに、
ライン川が流れていないからで、
その河畔にある古城がないからで、
また乾いた大地に根付くブドウ畑がないからで、
どこまでも続く麦畑がないからで、
古い町並みがないからで、
石畳の通りがないからで、
古い自転車に乗っているおじいさんがいないからなのだ。
つまり、
ドイツパンを美味しく彩っていた、周りのキャスト達が全くいないから、
パンも精彩を欠いてしまうのだ。
「だったらひるがえって、
日本はどうなのです。
日本で西洋のパンを食べるなんて、ならば本末転倒、
日本文化の行き着く先の、
根無し草文化の象徴が、すなわちパンであり、
すなわちパンなのだ!」
と専門家なら激しく叫びそうだけど、
僕の考えは違う。
日本は色んな文化を飲み込み、噛み砕き、
自分のものとして消化してしまう、
という他の国にはなかなか見られない特技をもっていて、
だからこそ、
この小さな島国は日本であり得た訳だ。
日本でパンが作られはじめて、まだ一世紀ちょっと、
まだまだモグモグと咀嚼中なのだ。
そもそも本当の文化の趣に、洋の東西はない、
本当にいいもの、手作りのものは、
どちらにも通用するし、共通項を多く持つ。
ゴッホが浮世絵を学んだように、
明治時代の洋館が和の趣に満ちているように、
それらは相容れられる。
とにもかくにも、
美味しいものを食べたかったら、
美しい山川と、
趣(おもむき)満点な文化を守らなければいけないのだ。
ならば!
僕は、
何世代も変わらないシンプルなパンを目指し、
焼きに焼き続けるのが役割なのかもしれません。
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