美の美たるを知るも、これ醜のみ。
善の善たるを知るも、これ不善のみ。
醜さがあるから、美しさを知れる。
不善があるから、善を知れる。
そもそも、その美醜、善不善の判断すら、人によって違う。
どちらが良いとか悪いとかではない。
都会を知っているから、山河の美しさを感じる。
山河を知っているから、都会の活気を感じる。
どちらかに偏り、
どちらが良いかを主張すると、おかしくなってしまう。
広島で生まれ育ったから、東京の楽しさを知った。
東京で暮らしたから、山河を歩き回る楽しさを知った。
日本で暮らしたから、海外の多様性を知った。
海外で暮らしたから、日本の素晴らしさを知った。
貧乏を経験したから、お金を得る喜びを知った。
何かを得たから、与える喜びを知った。
いろんな事に、全不善はなく、
それは捉え方次第であって、
そしてそれを知ったから、
反対も知れるのだな〜。
広島のパン屋に帰ったら、まさにホームで、
スタッフもいて、立ち飲みにも行って、パンを焼いて、学生さんに教える。
ドキドキすることもないし、安心していられる、毛布にくるまっているようだ。
蒜山の家に戻ったら、田畑の事も、お祭りも、まだまだ知らないことだらけで、
草刈りも米作りも弟子入りして教えてもらうことばかり。
いつもドキドキするし、まだまだ海をカヤックで漕ぎ進んでいるいるようだ。
最初は、子どもも泣くし、妻も大変だし、蒜山に一極集中しないとな、と思っていたけど、
どちらかに偏るのは、もったいないのかもな、とも思えてきた。
草刈りや、田んぼの事を教えてもらうほどに、
自分はパン作りの教え方が上手くなっているなと実感する。
反対に、
教えているから、学び方も上手になっているなとも感じる。
教えてばかりでは、
教え方は上手にならない。
学んでいなければ、
学ぶものの気持ちがわからないから。
学んでいるばかりでは、
学び方は上手にならない。
教えていなければ、
教えるものの気持ちがわからないから。
となると、ずっと学びの途上だな、、、
これを知れて実感できて自分はラッキーだったな、と思う秋のはじまりなのでした。
(トップ動画は、パン屋で新米を食べるときのグダグダです。)
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