捨てないパン屋3「ひつじのおかげ」

パン屋になる前、モンゴルに住んでいた。

草原で遊牧民と暮らした時の話。

モンゴルのひつじのさばき方は、
一滴の血も流さない。

なにかを察して暴れるひつじ。
僕の手は、
そのひつじの足を押さえつけている。
振りほどこうとする凄い力と、
「生きたい」という強い気持ちが手に伝わってくる。

心臓の近くを、毛をそぐように軽く、
ほんの数センチナイフで切る。
そこから手を差し入れて、
心臓の近くの血管を爪で切る。

血は横隔膜の内側にたまり、外側に流れ出ることはない。

ひつじは「ぐぐ〜」と大きな息を吐いた。
まるで魂が抜けていく音のようだ。
徐々に首の力が抜けて、
その頭はゴトリと地面に落ちた。

ほっとする気持ち。
寂しい虚無感。
なによりも大きな罪悪感。
そして、
食べたいという気持ち。

矛盾しつつ混ざり合うことのない気持ちが、
グルグルとわいてくる。

その気持があるからこそ、
食材として徹底的に利用する。

胆のうと肺が犬の餌になるほかは、すべて塩茹でにして食べる。
流れ落ちる油をも無駄にしないため、基本的には焼かない。
血も腸に詰めて、内臓と一緒に茹でる。
肉はナイフで削り、骨がピカピカになるまで食べる。
骨髄までほじって食べる。

そんなモンゴルから、
ほんの一時帰国のつもりで帰ってきて、
いろんな都合でパン屋になった。

はじめの頃、
僕は、パンづくりに失敗すると、
自分に怒り、落胆し、落ち込んだ。
気持ちをコントロールできず、
声の限りに何度も何度も叫んだ。
周りから見ると、きっと異常だったと思う。

父に、
「何をそんなに急いでるんだ!」
と怒鳴られたこともある。

でも、どうしようもなかった。
実際に急いでいた。
こんなのじゃダメだ。
早くいいパンにしないと!
焦ってた。

ひつじの経験が、
ぼくを追い立てていた。

だって、
悪いパンを焼いていたら、
そんなパンは、売れ残り、
捨てられるのだから。
今日も明日も明後日も、
来月も来年も5年後も、
パンの出来が悪いかぎり永遠にずっと。

小麦に申し訳ない。
ひつじの命とだぶる。

きっと何の職人でも、
死ぬ気で素材を活かしきるのは、
その命に対する重い重い責任だ。

そして、

その苦しいほどの重圧だけが、
ものづくりの技術を上げてくれる。

でも、今の日本では、命の重さを実感しにくい。

技術がなければ、
いろんなものを無駄にしてしまう。

僕の場合は、
ひつじが命をかけて、
パン作りを鍛えてくれました。

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