パン屋になる前、モンゴルに住んでいた。
草原で遊牧民と暮らした時の話。
モンゴルのひつじのさばき方は、
一滴の血も流さない。
なにかを察して暴れるひつじ。
僕の手は、
そのひつじの足を押さえつけている。
振りほどこうとする凄い力と、
「生きたい」という強い気持ちが手に伝わってくる。
心臓の近くを、毛をそぐように軽く、
ほんの数センチナイフで切る。
そこから手を差し入れて、
心臓の近くの血管を爪で切る。
血は横隔膜の内側にたまり、外側に流れ出ることはない。
ひつじは「ぐぐ〜」と大きな息を吐いた。
まるで魂が抜けていく音のようだ。
徐々に首の力が抜けて、
その頭はゴトリと地面に落ちた。
ほっとする気持ち。
寂しい虚無感。
なによりも大きな罪悪感。
そして、
食べたいという気持ち。
矛盾しつつ混ざり合うことのない気持ちが、
グルグルとわいてくる。
その気持があるからこそ、
食材として徹底的に利用する。
胆のうと肺が犬の餌になるほかは、すべて塩茹でにして食べる。
流れ落ちる油をも無駄にしないため、基本的には焼かない。
血も腸に詰めて、内臓と一緒に茹でる。
肉はナイフで削り、骨がピカピカになるまで食べる。
骨髄までほじって食べる。
そんなモンゴルから、
ほんの一時帰国のつもりで帰ってきて、
いろんな都合でパン屋になった。
はじめの頃、
僕は、パンづくりに失敗すると、
自分に怒り、落胆し、落ち込んだ。
気持ちをコントロールできず、
声の限りに何度も何度も叫んだ。
周りから見ると、きっと異常だったと思う。
父に、
「何をそんなに急いでるんだ!」
と怒鳴られたこともある。
でも、どうしようもなかった。
実際に急いでいた。
こんなのじゃダメだ。
早くいいパンにしないと!
焦ってた。
ひつじの経験が、
ぼくを追い立てていた。
だって、
悪いパンを焼いていたら、
そんなパンは、売れ残り、
捨てられるのだから。
今日も明日も明後日も、
来月も来年も5年後も、
パンの出来が悪いかぎり永遠にずっと。
小麦に申し訳ない。
ひつじの命とだぶる。
きっと何の職人でも、
死ぬ気で素材を活かしきるのは、
その命に対する重い重い責任だ。
そして、
その苦しいほどの重圧だけが、
ものづくりの技術を上げてくれる。
でも、今の日本では、命の重さを実感しにくい。
技術がなければ、
いろんなものを無駄にしてしまう。
僕の場合は、
ひつじが命をかけて、
パン作りを鍛えてくれました。
こんにちは。
たまたま別の場所で記事を見かけ、ここへ辿り着きました。
命が教えてくれる大事なこと、全くその通りです。
虫すら見かけることの少ない、都市だらけの今の日本では、感じとることが難しくなってしまいました。
素晴らしく貴重な体験談を、どうもありがとうございました。
ですが、ここにはコメントがひとつもないのですね。
いかにも日本らしい。
とうに知ってはおりましたが、それが改めて残念です。
こんにちは。
羊にはほんとうに感謝です。
昔も今も、自然に生かされ、教えられるしかないので、周りに自然が少なくなっていくのは、残念ですよね。
そして、コメント、少ないですよね。
みんながブログ書いていた5年前くらいまではコメントも盛んだったのですが、
SNSが増えてきてから、少なくなったように感じます。
恥ずかしがり屋さんが増えたのですかね?(^^)