
今日、11月19日は、創業者、祖父の命日。
42歳で、広島のお祭り「えびす講」で甘納豆を売った帰り道、事故で亡くなった。
今の自分より年下だ。もちろん会ったことはない。どんな人生だったのだろう?
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祖父の日記を読んでいる。
真珠湾攻撃から一月も経たない、昭和17年の正月から始まる。
祖父(勳三)は29才。妻と、娘1人、息子1人(父)、広島市の境町で甘納豆屋を営んでいた。
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1月1日
「大東亜戦争の完遂に至る今年こそは、昨年より以上の苦難を覚悟せねばなるまい。」
緊迫感と、高揚感を感じさせる一方、
「我が菓子業界の現状を顧みるについては、実に寒心にたへたり。」
自由な商売はできなくなり、原料も配給制に。
「仕事を一生懸命すれば、5日で終わる状態で。。働きたくても、働けぬなり。」
豆の配給も先細り、
甘納豆から、豆の少ない羊羹へ、さらに豆を使わず寒天と砂糖だけの寒氷糖造りへ変わる。

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1月23日
「寒氷糖を切って乾燥すべく9時頃より仕事にかかる。
大相撲13日目、安藝ノ海(広島出身力士)、双葉山に敗れ優勝を逃す。
皇軍の先鋒、シンガポールに迫り、ジョホールバルおいて大激戦を展開中とのことなり」
仕事をしながら相撲の結果を気にする日常と、激しい戦争中という非日常が、まだ混ざりきらず、マーブル模様に混在している。
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2月10日。
「嘉代子(娘)が風邪気にて、食べ物もあまり食べず熱もあり、心配せらるる」
寒い冬だったらしい。3才の娘が風邪をひいてしまう。
2月15日、
「本日午後7時50分星港の敵軍無条件降伏ス」
シンガポールを日本軍が落とす。
「風邪が変じてカタルとなり、黄疸が出て、扁桃腺炎をだし、病状複雑」
国中が祝勝で旗降る中、娘の病気は良くならず、入院することになる。
3月6日
「(嘉代子の)気分も良く、絵本を読んでくれと言うので、面白く読んでやる。時々パンとミカンを食べさせてやる。」
ようやく回復してきたと思えたその夜、娘は亡くなってしまう。
「何事も手につかぬ、気分はふらふらしている。(中略)仕事も嫌になってしまった。」
続いて、祖母も看病疲れで入院し、祖父本人も、
3月23日
「頭痛がやまず、多少熱もあり元気なし。」
という日記を最後に一ヶ月間日記は途絶え、腸チフスで生死の境を彷徨う。
4月22日
「長い病床生活を経て、やっと起き上がれるようになった。命拾いをしたような気がする」
と書いた、2日後。
4月24日
「速達便来る。徴用なり(中略)来たものは仕方がない。重ね重ね、何が来るやら解らない。」
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それから2週間ほどで、
5月9日
「町内多数の人の見送りに送られて護国神社参拝。広島駅に向かう。」
が、小倉駅での検査で、腸チフス後の衰弱の為、帰郷を命ぜられる。
「(広島駅で)父一人待っており」
昭和30年42才まで祖父は生きた。
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昭和17年の日記から、商売人、戦争に行った人、家を守った人、こどもたち、皆にとって、それぞれの非日常が始まったことが、伝わってきた。まずなによりも、日々働けることに、感謝です。
















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